親の預貯金は勝手に引き出せるのか—最高裁大法廷決定が変えた実務
1. 当然分割から遺産分割の対象へ——最大決平成28年12月19日(民集70巻8号2121頁)
変更前の考え方(〜平成28年)
かつての判例(最三小判平成16・4・20等)は、預貯金債権は相続開始と同時に当然に相続分に応じて分割され、各相続人が単独で自分の持分を請求できると解していました。つまり、相続人全員の合意がなくても自分の相続分に相当する額は単独で払い戻せるという考え方です。
最大決平成28年12月19日の判断(現在の考え方)
最高裁大法廷は、この判例を変更しました。
「共同相続された普通預金債権、通常貯金債権及び定期貯金債権は、いずれも、相続開始と同時に当然に相続分に応じて分割されることはなく、遺産分割の対象となる。」
理由の核心は「預貯金契約の単一性」です。普通預金は入金のたびに残高が変動しながらも「1個の債権」として同一性を保ち続けます。相続が開始しても、全員で解約しない限りこの性質は変わりません。相続人全員が預貯金契約上の地位を「準共有」するため、一人では自由に払い戻せないということです。定期貯金についても、分割払戻しが契約上制限されており、分割されると解する実益もないとして同様に判断されました。
従前の実務は?——実務追認にすぎないでは済まない理由
確かに、銀行実務は大法廷決定の前から相続人全員の同意なしには払い戻さないという運用をしていました。その意味では、窓口の対応そのものは変わっていません。しかし、この決定が変えたのはより根本的な部分です。
旧理論のもとでは、銀行が窓口で払戻しを断っても、相続人が「自分の相続分に相当する額を払え」と銀行を訴えれば勝訴できました。東京高裁平成7年12月21日判決(金融法務事情1445号56頁)は、さくら銀行に対する払戻請求を認容した代表的な事例です。大法廷決定後は、必ず遺産分割手続きを経なければ払い戻しを受けられなくなりました。さらに、この決定によって個別払戻しの法的根拠が失われたことで、葬儀費用や生活費のための緊急払戻しを制度的に保障する必要性が顕在化しました。これが令和元年改正民法(民法909条の2)による単独払戻し制度の創設に至りました(同条は「葬式の費用」を明示的に立法趣旨として掲げています)。
2. なぜ口座凍結が起きるか
金融機関は、顧客の死亡を知った時点で、口座の入出金を停止します。これが口座凍結と呼ばれる現象です。
大法廷決定後は、相続人の一人が単独で払い戻しを求めても、金融機関は応じる必要がないという整理が法的に明確になりました。相続人全員の同意(または家庭裁判所の判断)がなければ、原則として払い戻しできません。
3. 勝手に引き出した場合のリスク
相続人の一人が、他の相続人の同意なく預貯金を引き出した場合、次のような法的問題が生じます。
- 他の相続人に対する不法行為(準共有持分の侵害)または不当利得として、損害賠償・返還請求を受ける可能性がある
- 引き出した金銭は遺産分割の対象に組み込まれ、その分だけ取り分が減る可能性がある
4. 急ぎの費用はどうすればいいのか——令和元年改正民法(民法909条の2)
最大決後、「葬儀費用も払えない」という実務上の問題が深刻になりました。これに対応したのが、令和元年改正民法(民法909条の2)です。
単独払戻し制度(民法909条の2)
各共同相続人は、遺産分割が完了する前でも、次の計算式の範囲で単独で預貯金の払戻しを受けることができます。
民法第909条の2(遺産の分割前における預貯金債権の行使)
「各共同相続人は、遺産に属する預貯金債権のうち相続開始の時の債権額の三分の一に第九百条及び第九百一条の規定により算定した当該共同相続人の相続分を乗じた額(標準的な当面の必要生計費、平均的な葬式の費用の額その他の事情を勘案して預貯金債権の債務者ごとに法務省令で定める額を限度とする。)については、単独でその権利を行使することができる。・・・」
※同一の金融機関に対して請求できる上限額は150万円
例:残高600万円、相続人が子2人(各1/2)の場合
払戻し可能額 = 600万円 × 1/3 × 1/2 = 100万円(150万円の上限内)
仮分割の仮処分(家事事件手続法200条3項)
より大きな金額が必要な場合は、家庭裁判所に対して仮分割の仮処分を申し立てることができます。急迫の危険を防止するために特定の預貯金を仮に取得させる手続きです。葬儀費用・医療費・生活費など、必要性を疎明できれば認められる可能性があります。
5. 引き出された預貯金は遺産分割で取り戻せるか
被相続人が生前に(または相続開始後に)引き出された預貯金を、遺産分割の対象にできるかという問題は、よく混同されます。
| 状況 | 取扱い |
|---|---|
| 相続開始前に引き出された | 原則として遺産分割の対象外(不当利得・損害賠償で別途請求可) |
| 相続開始後に無断で引き出された | 原則として遺産分割の対象外(不当利得・損害賠償で別途請求) |
| 相続開始後に全員の合意で引き出し・別口座に移した | 合意に基づき遺産分割の対象とみなす扱いが可能 |
相続開始後に無断で引き出された現金は、元の預貯金債権が消滅しているため、厳密には遺産分割の対象になりません。しかし令和元年改正で新設された民法906条の2は、相続人が相続後に遺産を処分した場合に、その財産をなお遺産として存在するものとみなすことを処分した者以外の相続人全員の同意により認めることができるとしています。引出者以外の相続人全員が同意すれば、無断引き出しされた預貯金も遺産分割の俎上に乗せることが可能になります。
民法第906条の2(遺産の分割前に遺産に属する財産が処分された場合の遺産の範囲)
第1項「遺産の分割前に遺産に属する財産が処分された場合であっても、共同相続人は、その全員の同意により、当該処分された財産が遺産の分割時に遺産として存在するものとみなすことができる。」
第2項「前項の規定にかかわらず、共同相続人の一人又は数人により同項の財産が処分されたときは、当該共同相続人については、同項の同意を得ることを要しない。」
6. 名義預金——子・孫名義の預金は誰のものか
預貯金の相続では「名義預金」の問題もしばしば争点になります。被相続人が子・孫名義の口座を開設して資金を振り込んでいたが、通帳・印鑑は被相続人が管理し続けていた——というケースで、その預金は誰の財産として扱われるのかが問題になります。
判断基準:形式的な名義ではなく実質で判断
判例は、預金者の認定について出捐者(資金を出した者)が誰か、誰が実質的に管理支配していたかを重視する立場を採っています。形式的な名義ではなく、実質に着目して判断するという考え方です。
最高裁第一小法廷 昭和32年12月19日判決(民集11巻13号2278頁・無記名定期預金請求事件)
無記名定期預金について、預入行為者が金銭を横領して自己の預金とする意図で預け入れたなどの特段の事情がない限り、出捐者をもって預金者と解すべきとした判決。預金者認定における出捐者基準のリーディング・ケースとして広く引用されています。
最高裁昭和48年3月27日判決(民集27巻2号376頁)
無記名定期預金の客観説(出捐者基準)を明確化した判決。Aの事務員と称して妻が預入手続をした事案について、預入行為者ではなく出捐者を預金者と認める客観説の立場を採用しました。
最高裁平成15年2月21日判決(民集57巻2号95頁)
普通預金の預金者認定について、損害保険会社の代理店A社が「X代理店A社B」名義で開設した普通預金口座の預金債権の帰属が争われた事案。通帳・届出印をA社が保管し、A社のみが入出金事務を行っていた事実関係の下で、預金債権はA社に帰属すると判示しました。
国税不服審判所平成3年1月18日裁決(裁決事例集41号271頁)
被相続人がA(孫)名義で複数の定期貯金を作成・管理していた事案で、届出住所が被相続人の住所であり、届出印鑑も被相続人名義の他の定期貯金と同じであることなどから、被相続人が真の所有者であり相続財産に該当すると認定された名義預金の典型事例です。
3つの判断要素(実務上の整理)
- 出捐の経緯:誰が資金を出したか(振込元口座・資金の出所)
- 管理支配の実態:誰が通帳・印鑑を保管し、実際に運用管理していたか
- 取引の経緯・目的:名義人との関係、贈与意思の有無、名義人の認識(通帳の存在を知っていたか・贈与税申告の有無)
永石一郎ほか編『〔改訂版〕ケース別 遺産分割協議書作成マニュアル』(新日本法規出版、2020年)p.126では、これらの要素を総合考慮して預金者を認定するのが実務の運用と整理されています。名義人が通帳・印鑑を自己保管し自由に入出金していたケースでは贈与の完成と評価され、被相続人が通帳・印鑑を保管したまま名義人が関与していなかったケースでは名義預金として被相続人の遺産に組み込まれます。
7. 実務上の注意点まとめ
- 口座凍結前の引き出し:死亡直前・直後の出金も後に問題になることがある。通帳・取引履歴は必ず確認する
- 葬儀費用・生活費:令和元年改正の単独払戻し制度(上限150万円)を活用する
- 他の相続人が引き出していた場合:遺産分割交渉・調停・審判で考慮を求める。不当利得返還請求も選択肢
- 10年ルール(民法904条の3):相続開始から10年を経過すると具体的相続分ではなく法定相続分で分割されるのが原則になる。早期の手続き開始が重要
- 相続開始後すぐにすべきこと:相続人全員の把握・連絡、被相続人名義の全金融機関・口座の特定、残高証明書・取引履歴の取得(生前の不審な出金がないか確認)
まとめ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 旧来の考え方 | 預貯金は相続開始と同時に当然分割 → 各自単独で払戻し可 |
| 最大決H28.12.19以降 | 預貯金は遺産分割の対象 → 全員合意または裁判所の判断が必要 |
| 急ぎの払戻し | 民法909条の2(単独払戻し・上限150万円)/ 仮分割の仮処分 |
| 無断払戻しのリスク | 不法行為・不当利得として損害賠償・返還請求の対象になり得る |
| 引き出された預貯金の回収 | 全員同意で遺産とみなす(民法906条の2)か、不当利得返還請求 |
親が亡くなった直後は混乱した状況の中で、口座の取扱いに関して焦って行動しがちです。しかし、誤った対応がその後の遺産分割交渉を著しく不利にすることもあります。相続開始後の預貯金の扱いについて不安がある場合は、早めに弁護士に相談することをお勧めします。
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引用裁判例・参考条文・参考文献
- ・本橋総合法律事務所編『法律家のための 相続預貯金をめぐる実務』(新日本法規出版、2019年)p.111〜134(名義預金)
- ・最高裁判所第一小法廷 昭和32年12月19日判決(最高裁判所民事判例集11巻13号2278頁、昭和29年(オ)第485号 無記名定期預金請求事件)—— 預金者認定の出捐者基準
- ・最高裁判所 昭和48年3月27日判決(最高裁判所民事判例集27巻2号376頁)—— 無記名定期預金の客観説の確立
- ・最高裁判所第三小法廷 平成16年4月20日判決(家裁月報56巻10号48頁)—— 旧判例(預貯金は当然分割)
- ・最高裁判所 平成15年2月21日判決(最高裁判所民事判例集57巻2号95頁)—— 普通預金の預金者認定(保険代理店事案)
- ・国税不服審判所 平成3年1月18日裁決(裁決事例集41号271頁)—— 名義預金の課税認定(典型事例)
- ・最高裁判所大法廷 平成28年12月19日決定(最高裁判所民事判例集70巻8号2121頁)—— 預貯金は遺産分割の対象
- ・東京高等裁判所 平成7年12月21日判決(金融法務事情1445号56頁)—— 旧理論下での預貯金単独払戻し請求
- ・民法第906条の2(遺産の分割前に遺産に属する財産が処分された場合の遺産の範囲)
- ・民法第909条の2(遺産の分割前における預貯金債権の行使)
- ・家事事件手続法第200条第3項(仮分割の仮処分)
