認知症でも遺言は有効か
——遺言能力をめぐる攻防と実務対応【弁護士解説】
- 遺言能力とは何か(民法963条)と、裁判所がどのように判断するか
- 土井文美氏(当時・大阪高等裁判所判事)が整理した「3段階の判断構造」
- 認知症の種類(アルツハイマー型・血管性型・せん妄)が遺言有効性に与える影響
- 公正証書遺言でも遺言能力なし・口授要件違反で無効になった実際の裁判例
- 認知症があっても遺言能力が認められた3つのパターン
- 遺言を残したい方が今すぐすべき予防策
- 遺言無効を主張したい方が集めるべき証拠
遺言無効訴訟で最も多い争点——「遺言能力」とは何か
遺言が無効とされる原因の中で、実務上最も頻繁に問題になるのが「遺言無能力」、つまり遺言者に遺言能力がなかったという主張です。高齢化が進む日本では、遺言が作成されるのは高齢になってからというケースが多く、認知症との関係が避けられません。
遺言能力について定めているのは、民法963条です。
条文はシンプルですが、「能力」の中身が問題です。遺言能力とは、遺言という法律行為をするに必要な意思能力のことであり、一般的には「遺言の内容を理解し、その法的効果を弁識するに足る精神能力」と説明されます。
重要なのは、遺言能力は遺言書を作成した「その時点」で判断されるという点です(民法963条)。たとえ遺言作成の1週間前に認知症の診断を受けていたとしても、作成時点に能力があれば有効になりえます。逆に、公正証書遺言であっても、作成時点に能力がなければ無効となります。
裁判所はどうやって判断するか——土井判事の3段階構造
遺言能力の有無をどのように判断するかについては、土井文美氏(当時・大阪高等裁判所判事)が判例タイムズ(No.1423、2016年6月)において詳細な分析を行っており、実務上の指針として広く参照されています。
土井判事は、多数の裁判例を分析した上で、遺言能力の判断は次の3段階で行われると整理しています。
まず医師の診断書・診療録・各種検査結果に基づき、遺言者の精神疾患の種類(認知症、統合失調症、せん妄など)とその重症度を客観的に特定します。精神疾患の存在だけで遺言能力が否定されるわけではなく、「どの疾患が、どの程度の重症度で存在していたか」が出発点となります。
特定された精神状態が、常に(常時)事理弁識能力を失わせるような疾患や重症度であると認められる場合、当該遺言作成時に遺言能力がなかったことが「相当程度推認」されます。この推認を覆すためには、「遺言作成時に例外的に能力があったことを示す特段の事情」を示す必要があります。
精神状態が「常時」事理弁識能力を失わせるほどではない場合でも、当該遺言作成時に遺言内容を理解できなかったと認めるに足りる特段の事情があるかを個別に検討します。考慮される要素は、①遺言作成時およびその前後の状況、②遺言内容の難易度、③遺言内容の合理性・動機の有無、などです。
この3段階構造で重要なのは、「推認」という考え方です。常時事理弁識能力を失う疾患・重症度が認定されれば、能力ありを主張する側が「特段の事情」を積極的に示さなければならなくなります。遺言を有効とした側に立証責任が転換されるイメージです。
認知症の「種類」が判断を大きく左右する
土井判事の分析が特に有益なのは、認知症の種類ごとに遺言能力への影響を整理している点です。認知症は一括りにすべきではなく、その種類によって遺言能力の判断傾向が大きく異なります。
最も多い認知症。記憶障害から始まり、見当識障害・実行機能障害へと緩やかに進行します。病識が早期に消失しやすく、人格水準も低下します。進行が持続的かつ全般的であるため、中期以降は遺言能力が否定される傾向があります。一方、初期段階であれば能力が認められるケースもあります。
脳血管障害が原因で、急激・段階的に悪化します。「まだら型」と呼ばれ、症状が出る機能と保たれる機能が混在します。末期まで病識や人格が比較的保たれることがあります。症状に波(ルシッドインターバル)があるため、一時的な回復期に作成された遺言が有効と認められるケースがあります。
意識障害を伴う急性かつ一過性の状態です。数時間〜数日で発症し、症状に日内変動(特に夜間に多い)があります。認知症とは異なる一時的な症状であり、「常時」事理弁識能力を失わせるものではありません。遺言作成前後に夜間の異常行動があっても、昼間の状態が正常であれば遺言能力が認められた裁判例があります。
加齢による認知機能低下は精神上の疾患ではありません。異常行動・判断力の減退があっても、日常生活全般に支障をきたす認知症とは区別されます。加齢だけをもって直ちに遺言能力が否定されるわけではなく、認知症への進行があるかどうかが重要な分岐点となります。
「公正証書遺言なら安全」とは言い切れない——東京地裁H20.11.13を例に
「公正証書遺言で作っておけば争われない」と思っている方は少なくありません。しかし実際には、公正証書遺言であっても、遺言能力がなかったとして無効が確認された裁判例は複数あります。
その一例が、東京地方裁判所平成20年11月13日判決(判例時報2032号87頁)です。
事案の概要
肺がんで入院中の遺言者(梅夫)が、入院中の平成18年11月28日に公証人を病室に呼んで公正証書遺言を作成しました。弁護士2名が関与し、事前に遺言内容の打ち合わせも行われていました。
遺言作成前後の状況
遺言作成の約10日前から意識レベルが低下し、傾眠傾向・呼びかけへの無反応状態が続いていました。作成前日には「自分は院長だ」「出掛ける」などの見当識障害が認められる発言がありました。作成当日は酸素マスクを着用し、抑制帯で上肢を固定された状態でした。
遺言作成時の状況
公証人が各条項を読み聞かせる途中で、遺言者は首を大きく横に振って眠ってしまいました。公証人は一旦作成を断念しましたが、妻(利益を受ける側)が何度も揺すって起こし、改めて読み聞かせが再開されました。遺言者の応答は、手を握り返すジェスチャーのみでした。
裁判所の判断
裁判所は、(①)遺言作成時の梅夫は意識障害に陥っており遺言の意味・内容を理解する精神能力を欠いていたとして遺言能力を否定しました。さらに(②)「言語をもって陳述することなく、単に肯定または否定の挙動を示したにすぎないとき」は民法969条2号の口授があったとはいえないとし(最判昭51.1.16参照)、口授要件の違反も認定して遺言を無効としました。
この事案が示す教訓は重要です。弁護士が関与し、事前に遺言内容を打ち合わせ、公証人が病室に出向いた——それだけでは遺言の有効性は担保されません。遺言作成の「その時点」の意識・判断能力が決定的であり、かつ口授は「言語での陳述」でなければなりません。うなずきや手を握り返すだけでは足りないとされています。
認知症があっても遺言能力が認められた3つのパターン
一方で、医学的に認知症の診断を受けていても、遺言能力が認められた裁判例も多数あります。土井判事の論文では、以下のようなパターンが整理されています。
パターン①:血管性認知症(まだら認知症)の安定期・回復期
多発性脳梗塞による「まだら痴呆」が認められたケースです。症状に波があり、遺言作成時は主治医と会話ができ、本心に復していると判断できる状態にありました。症状が一時的に回復した時点(ルシッドインターバル)での遺言について、裁判所は遺言能力を肯定しました。
パターン②:夜間の異常行動をせん妄と認定
脳梗塞後に夜間の見当識障害・異常行動が見られたケースです。裁判所は、夜間の異常行動は認知症ではなく「せん妄」によるものと認定しました。昼間は正常な判断能力が保たれており、遺言作成時も昼間の状態であったことから、遺言能力が肯定されました。
せん妄と認知症を区別することの重要性を示す典型的な裁判例です。
パターン③:重度認知症でも遺言内容の単純さで有効
アルツハイマー型認知症でHDS-R(改訂長谷川式簡易知能評価スケール)が10点台という高度認知症のケースです。通常であれば遺言能力が否定されやすい状態でしたが、日常的に会話や買い物ができ、不満を明確に表現していたという事実が証明されました。また遺言内容が「特定の者にすべてを相続させる」という単純なものであったことも考慮され、遺言能力が肯定されました。
これら3パターンが示すのは、「認知症=遺言無効」ではないということです。認知症の種類・重症度・遺言作成時の状況・遺言内容の複雑さを総合的に判断した結果、有効とされるケースは決して少なくありません。
遺言を残したい方へ——今すぐできる予防策
遺言能力をめぐる争いを防ぐためには、遺言作成時に「能力があった」ことの証拠を積み上げておくことが最善の対策です。
① 遺言作成日に近接した時点の診断書を取得する
遺言能力の有無は「作成した時点」で判断されます。遺言を作成する日に近接したタイミングで、かかりつけ医に診断書を作成してもらうことが有効です。その際、単なる病名・症状の記録ではなく、「遺言の内容を理解し、その法的効果を弁識できる能力があった」旨が記載されていることが望ましいです。
多くの裁判例において、遺言作成時またはその前後に医師が作成した診断書は、遺言能力の有無を判断する証拠として重視されています。公証人も、遺言者の判断能力に疑義がある場合は診断書の提出を求めることがあります(公証規則13条参照)。
② 認知機能検査(HDS-R等)を遺言作成のタイミングで受ける
HDS-R(改訂長谷川式簡易知能評価スケール)は、認知症のスクリーニングと進行度を測るための検査です。30点満点で、20点以下が認知症の疑いとされます。
この検査を遺言書作成のタイミングで受け、その結果を保存しておくことが有益です。多くの裁判例において遺言能力の有無を判断する証拠として用いられています。ただし、HDS-Rのスコアはあくまで参考資料の一つです。点数だけで遺言能力が確定するわけではなく、他の証拠と総合的に評価されます。点数が高ければ安心というわけではありませんし、低くても直ちに無効になるわけでもありません。
前述の東京地裁H20.11.13判決のように、公正証書遺言であっても遺言能力が否定されたケースは複数あります。公正証書遺言は方式面の安全性が高いものの、遺言作成時の意思能力の問題は別の次元の話です。「公正証書にしたから大丈夫」という安心感は持ちすぎないことが重要です。
③ 遺言内容をできるだけシンプルにする
判例上、遺言内容の難易度は遺言能力の判断に影響します。全財産を一人に相続させるような単純な遺言は、認知症が進んでいても有効と認められやすい傾向があります。一方、複数の不動産を複数人に細かく配分する、相続税対策を絡めた複雑な遺言は、より高い認知能力が求められると解されています。
遺言無効を主張したい方へ——証拠収集の実務
逆の立場——「認知症だった親の遺言は無効のはずだ」という場合——に何をすべきか、証拠収集の観点から整理します。
① まず診療録・看護記録が取り寄せられるか確認する
遺言能力の有無を争う場合、最初に動くべきは診療録(カルテ)・看護記録などの医療記録の取り寄せです。「診断書」だけでなく、医師の診察録・検査記録・手術記録・看護記録(経時的な状態の記録)が重要な証拠になります。
看護記録は、遺言者の遺言作成前後の日常的な状態を経時的に記録したものです。「夜間の異常行動」「呼びかけへの反応の有無」「意識レベルの変化」などが記録されていることがあり、遺言能力の有無を推認させる重要な資料となります。
- 入院先・通院先の病院への診療録開示請求(相続人から請求可能)
- 介護施設の介護記録・ケアプラン
- 要介護認定の認定調査票・主治医意見書
- HDS-R・MMSEなど認知機能検査の記録
- 成年後見開始申立てがあった場合の鑑定書・診断書
② 遺言作成前後の状況に関する証拠を集める
遺言作成日の近接した時点における遺言者の言動・行動は、遺言能力の有無を判断する重要な材料です。以下のような事実が証拠になりえます。
- 遺言作成日前後に遺言者と接触した人物(家族・介護職員・医師・知人)の証言
- 遺言者が「自分の名前・日付・場所を正しく言えたか」「会話が成立したか」
- 「徘徊」「失禁」「妄想的発言」など症状が進行していたことを示す記録
- 遺言作成に関与した受益者(遺言でより多くの財産を得る者)と遺言者との接触状況
③ 公正証書遺言の場合は「口授要件」も確認する
公正証書遺言の場合、口授要件(民法969条2号)も争点になりえます。前述の東京地裁H20.11.13判決の通り、遺言者がうなずくだけ・手を握り返すだけでは口授の要件を満たさないとされています。公正証書の作成経緯(公証人の記録、証人の証言など)を確認することも重要です。
まとめ
- 遺言能力の有無は遺言作成時点で判断される(民法963条)。認知症の診断があっても直ちに無効とはならない
- 裁判所は土井判事の3段階判断構造を参照し、①疾患・重症度の特定→②常時喪失なら推認→③特段の事情の検討、という流れで判断する
- 認知症の種類が重要:アルツハイマー型は否定傾向、血管性型(まだら認知症)はルシッドインターバルで有効になりうる。せん妄は認知症と区別される
- 公正証書遺言でも遺言能力なし・口授要件違反で無効になった裁判例がある(東京地裁H20.11.13等)
- 遺言を残したい方は:遺言作成時近接の診断書・HDS-R等の認知機能検査・内容のシンプル化が予防策になる
- 遺言無効を争う方は:まず診療録・看護記録・介護記録の取り寄せを確認し、遺言作成前後の状況証拠を集める
遺言能力が争われるケースは「グレーゾーン」が多いというのが実感です。医学的に認知症の診断があっても法的に有効になるケースがある一方、明確な診断がなくても状況から無効が認められるケースもある。裁判所の判断が割れる事案も珍しくありません。
土井判事が指摘しているように、医学的にどちらとも取れる場合は、最終的に担当裁判官の価値判断が入ってきます。だからこそ、証拠の質と量が結論を左右します。「遺言能力がなかった」と主張する側も「あった」と主張する側も、早い段階で弁護士に相談して証拠の見通しを立てることが重要です。
診療録の開示請求は時間がかかることがあります。また、認知機能検査の記録は保存期間が限られている場合もあります。「争うかどうかまだ迷っている」という段階でも、まず証拠が取れるかどうかの確認だけでも早めに動いてください。時間が経つほど証拠が失われていきます。